武蔵野線

2004年8月17日に武蔵野線に乗った。以下はそのメモである。

完乗の記録をつけ始めると、記憶の曖昧さゆえに、あれこれと不安になることがある。電車に乗って誰それとどこそこへ行ったとか、道中でこんなことがあったとか、エピソードがあれば、芋づる式に何線の何駅から何駅まで乗ったかと思い出せて安心する。

しかしながら、ときには、その思い出した記憶が思い込みの産物だったりするからやっかいなのである。武蔵野線に最初に乗ったのは、もう10年以上前と記憶する。武蔵浦和から西国分寺まで利用した。なぜ利用したか、である。中央線に乗ろうとしたら、中央線が水没していたのである。

「中央線が水没」と、ずっと覚えていたのだが、私の頭の中にある中央線の知識と照らし合わせてみると、中央線が水没したことなど、ない。その2つの相反する事実をお互いに矛盾を感じることなく、ずっと持ち合わせていたのだから呑気なものなのである。

水没したのは武蔵野線の方であり、武蔵野線に乗れなかったから中央線を利用したのである。記憶が入れ違っていたわけだ。確認すると、1991年10月11日夜、関東地方に台風21号が接近して、新小平駅が水没。同年12月12日に復旧となったそうだ。

それでも、武蔵浦和〜新秋津は乗っている。なぜ新秋津か。歩いて西武線に乗り換えたのである。こういうことをやっているから完乗はおぼつかない。よくよく考えてみると、武蔵野線も、西国分寺〜府中本町間と、武蔵浦和南浦和間もあやしいものである。南浦和西船橋間については2003年2月23日に乗っている。ここで三浦綾子の『塩狩峠』を読了しているから、読書日記の記録で確認した。

とすると、武蔵野線の怪しい区間を通して乗るのが合理的だ。この日は思い立って、府中本町〜南浦和を乗ることにした。府中本町から、16時51分発の南船橋行きに乗車。やはり先頭に陣取って、クハ103-761である。オレンジ色の、中央線電車と同じタイプだ。外は雨模様。車窓は、どこにでもありそうな東京近郊の沿線風景で、見たことがあるんだか、ないんだか、不明である。高架橋で西国分寺に至り、この駅を過ぎると、長いトンネル区間に入る。2kmほど走って、件の新小平駅である。トンネルから出て、ホームほどの長さの分だけ、地上に顔を出してまたトンネルである。ホームは掘り下げられた空間であり、土砂が滑り込んで水没するのも納得であった。新秋津までは、また、4kmほどのトンネル。103系電車で真っ暗い中を突っ走る光景というのも趣がある。新秋津を過ぎて、地上に顔を出す。

新座の駅の手前に操車場があり、貨物列車が何両も停まっていた。こういのを見ると、やはり武蔵野線というのは貨物線だったのだな、と名残を感じる。武蔵野線というのは、鶴見〜西船橋の100.6kmであり、逐次旅客化されてきたが、鶴見〜府中本町はいまだ旅客化されていない。この区間はほとんどトンネルであるから、どう駅を作るかにかかってこよう。ともあれ、この日制覇するのは、府中本町〜西船橋間の71.8kmである。

北朝霞では、耳に赤ペンをはさんで、競馬新聞を持ったひとが乗り込んできた。こういうのを目にすると、やはりギャンブル路線なんだな、と感じる。今回は府中本町から乗ったが、府中本町には東京競馬場に続く長い橋がある。多摩川競艇場もまた近い。南浦和浦和競馬場が近いし、千葉に入れば、船橋法典は中山競馬場に近く、南船橋は、船橋競馬場船橋オートレース場の最寄である。北朝霞というと戸田競艇場が近いのだが、地図で確認するとそれは埼京線の方に最寄駅があるようで、ちと穿ちすぎな見方だったかもしれない。なお付言すると、私は上記いずれのギャンブル場にも足を踏み入れたことはない。

17時25分、電車は南浦和について、武蔵野線の完乗を確認した。