富良野線

2004年8月7日に富良野線に完乗している。以下はその記録である。

この日は、富良野線の乗りなおしの旅である。富良野線は2003年9月20日に乗っているが、旭川から乗って、予定外の行動をとり中富良野で下車しているので、中富良野富良野間の7.5kmが未乗となっていた。

2003年9月20日の朝は、ワシントンホテル旭川のシングルルームで目覚めた。私の宿といえばユースホステル東横インというパターンになってきているが、旭川東横インは4,800円で、ワシントンホテルが4,700円。100円の差でこちらにしたわけである。ユースホステルを選ばなかった理由は、前夜の到着が遅くなるのが見えていたから。ユースホステルだと18時以前には到着していないと居心地が悪くなる。

前夜はテレビに9時間のオンタイマーをセットして、眠りについた。朝、テレビの音に気づくと、6時22分起床。ポンキッキーズやっていた。爆チュウ問題がでたらめな歌を歌い、ドレミパイプガチャピンが「小さい秋」を演奏していた。

7時にホテルを出て、旭川駅構内のキオスクで「ちくわロール」130円と「ピロシキ」120円。ローソンでピーチ・フルーツ・ジュース。7時20分に部屋に舞い戻ると、今度はちびまる子ちゃんである。ピーヒャラピーヒャラとなつかしい。バスルームでコンタクトレンズを装着。昨日は目が痛くて眼鏡であった。朝起きると目は治っていたが、肩が痛い。今晩は温泉に行こう。8時になるのを待ってホテルを出る。

徒歩で忠別川を渡り、8時30分に、道の駅。スタンプラリーのポイントで、9時ならないと開かないと記載があったが、なんのことはない。すでに開いていた。外国樹種見本林についたのは8時45分。10分ほど散策をする。どれが何の木だか、どうも感心がないゆえか、はっきりしないのだが、そばの公園で老人たちがラジオ体操だろうか、集まって何かをしていたのだけを覚えている。とはいえ、のちに『氷点』を読んだときのイメージとしては役立っている。

三浦綾子文学記念館は、手元の時計で8時58分に開館。建物の前で手持ち無沙汰に待つ私を見かねて、開けに来てくれたのかと思ったら、単に私の時計が2分遅れていただけであった。扉が開くと、5人ぐらい、客が続々と入ってきた。私はあらかじめ、調べて割引券を用意してきたわけだが、果たして、割引額は50円であった。500円のところが、450円になった。

2階建て、六角形の吹き抜けが中央に配された解放感のある建物である。文学館の類には、誰の文学館にしても、本当に決まりきったものしか置いていない。パネル展示だとか、全集本だとか、自筆原稿だとか、ご愛用のペンだとか、取材用のカメラだとか。あるいは書斎の復元がしてあったり。そんなものを見ていても、文学の一端にも触れられない。けれど、『塩狩峠』一冊とはいえ、知らない作家ではないのだから、見ていてなかなかおもしろい。

私が三浦綾子に注目するのは、やはりデビューの遅さである。40歳過ぎのデビュー。ひとに比べて人生の進行が遅い私でも、一気に取り返しぬき去ることができるのではないか、と密かに勇気づけられるものがある。

字のきれいな自筆原稿を眺め、『氷点』が入選した時の「雑貨店主婦」という肩書きも興味深く見て、「応募作品と私」という原稿に目が止まった。句点が行頭にある。原稿用紙の使い方としては誤りであるが、これはどうなのか。やはり素人作家の出発点であったのかとさらに見ていると、『アララギ』なる冊子があり、1951年1月号であったが、堀田綾子の名前で対談批評として「前号作品について」と前川正氏と語っている。この人、『道ありき』に登場する彼であると、後で知るのだが、それはともかく、『主婦の友』昭和37年新年号には、林田律子の名前で「夢の記録」なる小説が入選している。「太陽は再び歿せず」なる小説もある。『氷点』で彗星の如く現れたと思っていたら、こうして意外なものを目にしたわけだ。

あとは、旧宅の写真を見た。塩狩峠に記念館として保存されているものだが、さすがにあれはかなり補修したものとみて、写真ではあそこまでは美しくなかった、というのが感想である。

文学館の棚には、記念館で有料だったパンフレットが無造作に無料で配布されていた。

文学館を辞し、停留所に向かった。旭川200か228のナンバーのついたノンステップバスである。右最前列に席を取った。車内には霊感占い1分100円なる広告。なかなか大変である。9時47分に一条7丁目のバス停に着いた。道北バスの案内所で時刻表をもらい、旭川駅には9時55分に入場した。

さて、富良野線である。旭川駅富良野線ホームは6番線と7番線。この2線で1つの島式ホームなのだが、5番線からはやけに離れている。地下の連絡通路でつながれているのだが、50mは余計にあるかされる。何かの名残であろうか。

列車はすでに入線していた。先頭に蒸気機関車。黄緑色のかわいい客車は前から3号車、2号車、1号車の順で、一番うしろにさらにディーゼル機関車が配されていた。2号車は自由席であった。まず、自由席があったのかと、驚く。510円も出して指定券を出したのは損であったかに思ったが、これはイベント列車であり、指定席の方がなにかと楽しかったと、後々思った。

蒸気機関車を一目みてみないとと、先頭に回ると若いカップルに写真を頼まれた。押し付けられたのはデジカメであった。ファインダーをのぞこうとカメラを顔に近づけれるが、おっと、これは液晶ディスプレイを見ればいいのだと、あわててカメラをつき遣る。「はい、撮りまーす」などと言って、シャッターを押したわけだが、おそらくこれが私が始めてデジカメを操作した経験ではないだろうか。

蒸気機関車はC11-207とプレートが入っていた。「昭和十六年製」とある。機関士か機関助士か、シャベルで一生懸命に石炭を放り込んでいた。後ろに回るとディーゼル機関車DE15-2516である。ひとが話しているのを傍で聞いたところによると、蒸気機関車だけで走れないことはないのだが、そうすると釜が痛みがはやくなってしまうのだという。大事に大事に使っているわけだ。

10時3分、富良野・美瑛ノロッコ号1号が「ブオーッ」と汽笛を鳴らして発車。窓は開いている。花火の火薬のようなにおいが入ってきた。窓外には黒煙が流れ出す。蒸気機関車に乗っているのだな、と実感した。初めての蒸気機関車体験である。

1両目の車番はオクハテ510-2、運転台付き。2両目はナハ29003。3両目はオハテフ510-51。聞いたこともない車番ばかりである。3両目が1号車。私の席は1号車6番C席。指定席は満席である。